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佐世保の歴史

戦争への道
昭和初期〜戦争終結

3 勝富・花園遊廓と花柳街

 明治19年佐世保に軍港設置決定、利に敏(さと)い業者はすぐに遊廓(ゆうかく)設置を願い出て認められた。翌年、福石免木風に3軒の貸座敷が開業した(木風遊廓)。
 この遊廓は市街地からかなり遠く、明治24年佐世保村小佐世保免に移転した(小佐世保遊廓・勝富遊廓)。
 佐世保の急激な人口増は成年男子の数をふやし、小佐世保遊廓も繁昌した。日清戦争、日露戦争と戦争ごとに人がふえ、遊廓を太らせていった。
 明治30年、佐世保軍港を守るために、軍港周辺に築造された要塞砲台の兵員訓練の目的もあって、佐世保要塞砲兵連隊が設置され、数百人の兵士が常駐した。
 それらの兵士を相手に一儲けしようとする者が、宮田町に店を開いた。市街地に近いこともあって風紀の乱れが眼に余るようになり、明治42年名切免(熊野、花園、名切町)に貸座敷免許地を設け、この地に移転させた。これが「花園遊廓」の始まりである。
 これ以後、両遊廓は並立していくことになる。東京の吉原や長崎の丸山に似た「おいらん」式の経営で、一軒の抱える娼妓の多い勝富遊廓と、一軒の娼妓数は少ないが貸席数の多い花園遊廓との競争となった。
 佐世保には娼妓とは別に芸妓(げいぎ)(芸者)の数が多かった。芸者の人気が高かったのは海軍軍人の遊びの相手としてであった。
 市制施行の頃、すでに80人いた芸者が、昭和12年の海軍全盛時には300人近くになっていた。海軍工廠、海軍、陸軍、鉱工業と男性の数が女性を上まわり、長崎市にくらべて男性相手の遊び場が多かった。
 芸妓の置屋は新・旧どちらかの検番に所属しており、注文に応じて料亭(りょうてい)や待合(まちあい)に派遣していた。
 料亭の代表的な存在が「万松楼(ばんしょうろう)」と「いろは」で、海軍や陸軍の士官、下士官がよく利用したという。
 佐世保の遊廓や花柳界は、海軍の消長と軌を一にしており、数も海軍、工廠の盛衰に合わせて増減している。
 娼婦の待遇も悪く、外出も自由にできない状況に押し込められ、楼主との紛争も起こっている。若い兵士や職工との心中事件もたびたびで、新聞の社会面を賑わした。いずれも「性の商品化」がもたらした悲劇といえよう。
 戦争が激しくなり、若い女性は軍需産業に徴用され、高級料亭、芸妓等の休廃止となり、遊廓も料亭も淋しくなった。しかし、公娼制度は依然残り続けた。

表3 佐世保の遊廓年表

写真6 小佐世保(勝富)遊廓

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