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佐世保の歴史

戦争への道
昭和初期〜戦争終結

6 戦争何もかも足りない

 昭和初め不況と軍縮の影響が佐世保にも及んできた。失業者は増大し、12,000人いた海軍工廠の職工も昭和6年の大量解雇等があって半分の6,000人に減っていた。
 満州や中国での戦争は佐世保の様相を一変させた。
 海軍工廠は忙しくなり、民間の工場も軍の注文がふえた。市内だけでなく近くの町村にも軍需工場がふえ、工員が各地から集められ、工員宿舎が大急ぎで作られた。
 多くの兵士が佐世保に集められ、つぎつぎと軍艦や輸送船に乗り戦場へと向った。大量の軍需物資(ぐんじゅぶっし)(弾薬、兵器、車両、燃料、医薬品、衣類、食糧、鉄鋼等)が積み出された。駆逐艦、潜水艦の進水がつづき、ドックや岸壁では艦船の修理、機関や兵器の据(す)え付けを行っていた。
 昭和16年12月に太平洋戦争が始まり、国中がアメリカ、イギリスに勝つため命を捧(ささ)げる覚悟を持たされた。
 軍港はものすごく多忙になった。仕事は山ほどあり、国中から徴用(ちょうよう)工員が強制的に集められた。20、30代の男は戦場に送られ、遂(つい)には大学生も戦場へ向った。徴兵年令は19歳になり、合格基準も大きく緩(ゆる)められた。
 工場、農村、交通等の労働力不足を補(おぎな)うため10代の中学生、女学生、青年学校生、未婚女性が勤労動員、挺身隊(ていしんたい)の名で集められた。月月火水木金金と土日曜なしで毎日働くことが普通になり、国民学校以外の学校の授業は中止された。一番厳しい炭鉱や鉱山には、強制連行された朝鮮人や中国人、戦争捕虜(ほりょ)が強制的に働かされた。
 戦死者も年ごとに多くなり、3ヶ月に1回程度だった鎮守府葬や市町村葬も1ヶ月に1回になり、ついには多くの人が集まるのは危い、という理由で行われなくなった。戦死者の数が多くなり生死さえ分らない者がふえ、負け戦(いくさ)を市民に悟(さと)られるのを恐れたのではなかろうか。
 戦争拡大は大きな出費が伴う。政府はいろんな物品に税をかけた。貯金を勧(すす)め、債券(さいけん)をどんどん発行して国民に押しつけた。これらは半強制的に行われた。  戦争で不足したのが金属類である。特に鉄、銅、鉛、アルミ等である。政府は金属回収に力を入れ、銅像、梵鐘(ぼんしょう)、門扉(もんぴ)、家具、トタン等を徹底的に集めた。
 農村の人手と肥料の不足は深刻で、これが人々に食糧不足となって襲(おそ)いかかった。米麦をはじめ、野菜、調味料、燃料、衣類、はき物等の生活必需品(ひつじゅひん)は全て配給制になった。配給だけでは足りないので、市民は食糧を手に入れるのに必死であった。

写真15 防空消火訓練

写真16 森永洋品店

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