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佐世保の歴史

戦争への道
昭和初期〜戦争終結

7  銃後の女性

 昭和6年(1931)9月の満州事変勃発以降、国内は戦時色に染まり、女性達は国のために銃後の役割を担わされていった。
 婦人会組織が作られ、戦争や軍援助の準備など、さまざまな活動をおこなっていった。
 愛国婦人会や国防婦人会は兵士の見送りや出迎え、戦死者の葬儀参列、留守家庭の慰問、慰問袋作り、防火訓練、農繁期の託児所設置等、非常時下の生活を守り、軍事援護活動を行うのが当面の課題であった。国家総動員法の制定により、婦人会の役割も次第に大きくなっていった。
 太平洋戦争へ突入すると、あらゆる生活物資が不足し、配給制度化され、「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に必勝の気運が高まり、各家庭から軍需資源としての金属製品や、羊毛製品の供出が始められた。
 女学生は全国的に服装が統一され、セーラー服がへちま衿の標準服に、スカートがモンペに変えられ、各地域で勤労奉仕が始められた。成年男子だけでは労働力が不足したため、20歳以下の男子・女子学生が動員体制法により、各学校毎に軍事施設で働かされ、卒業後の進路については全く自由は許されていなかった。田植の時期は学校から、10,000人近い学徒が動員され、食糧増産に努め、真夏の除草作業、収穫時期の稲刈から取り入れまで、慣れない仕事を不平不満をもらす者もなくやりとげた。この間、農村や軍の施設で共同生活を続けた。軍の工場での業務は、水雷工場や精密工場、砲弾工場での砲弾等の検査、造兵部の砲熕(ほうこう)工場では砲台組み立て等、兵隊の業務と全く同じで、一定の期間、訓練を受けて仕事をした。早出、残業もあり、軍靴の傷んだのをほぐす仕事もあった。軍や軍需工場へ・農村への動員は、男子はもちろん、女子学生も、九州各県から佐世保へ「挺身隊員」として行われた。「学校長の命令、即ち軍の命令」として受けとめ、行く先も知らされず、すべてが秘密裡(ひみつり)の行動で、両親にも明かさず、動員先を死場所と覚悟を決めていたという。訓練は、通信、モールス信号、手旗信号等、数万人に及ぶ学徒が銃後の結束を固めた。

写真18 撃ちてしやまん(中央)と身分証明書

写真19 銃後の守り 国防婦人会

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