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佐世保の歴史
戦争への道
昭和初期〜戦争終結
8 佐世保空襲(くうしゅう)
昭和16年12月に始まった太平洋戦争は、初めこそ日本に有利だったが、アメリカの戦争体制が整って来ると共に形勢は逆転した。日本は各地で敗退を続けた。昭和19年8〜9月、アメリカ軍はテニアン、サイパンを占領し大型飛行場を作った。連日ここから何百機ものB29が日本への爆撃(ばくげき)をくり返した。空母からの艦載機(かんさいき)も日本各地に攻撃を加えた。昭和19年10月大村、11月東京と、B29による空襲を受けた。昭和20年は、1月3日大阪、名古屋に始まり、終戦までの間に120回余りの空襲が行われた。日本の主要都市は大きな被害を受けた。
主要航路や港ではB29がばらまいた機雷(きらい)に触(ふ)れて、多くの船が沈没(ちんぼつ)し、海上交通は輸送力が大きく低下した。
佐世保では3月9日、13日にアメリカの偵察(ていさつ)機が飛来し、4月8日にはB29一機が来襲して爆弾を投下、海軍工廠や民家で百数十名の死傷者を出した。5月24日にも来襲したが、市民には詳しいことは知らされなかった。都市や軍事施設への空襲は続き、県内では大村の航空廠(こうくうしょう)が何回も爆撃を受けた。九州の主要都市も空襲を受け、「次は佐世保」と市民の不安は募(つの)るばかりであったが、口に出して言うことはできなかった。「今日か、明日か」と連日鳴り渡る空襲警報のサイレンと防空訓練に、市民は身も心も疲れ果てていた。
6月28日夜、梅雨の雨雲が空を覆(おお)い、「こんな日は大丈夫だろう」と多くの市民は思いこみ眠りについた。11時50分すぎ、141機(米軍資料)のB29が襲来し、大量の焼夷弾(しょういだん)を投下した。「火の雨」が降った。わずか2時間で1,000トン余の焼夷弾が降り、市の中心部は火の海となり、多くの市民が、苦しみ、もがき、市街や防空壕(ぼうくうごう)の中で死んでいった。防火訓練も天井板外しも役に立たなかった。空襲の被害状況は上記の通りである。
当日の犠牲者数については、遺族会の調べで軍人、軍属を除いて1,198人が、一連の空襲を含めると1,217人が亡くなられたことが判明している。犠牲者については、現在も遺族会で調査が続けられている。
家、家族、仕事を失った多くの市民は、親類・知人を頼って市内外へ避難した。行く所のない市民は、焼け残った民家や集会所、さらには防空壕にまで住んで雨露をしのいだ。