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佐世保の歴史
戦争への道
昭和初期〜戦争終結
9 戦争終結と佐世保
昭和20年は空襲で明けた。人々の生活は最低限の衣食住さえ下回る状況で、一日一日をやっと生きていた。
政府が「本土決戦」を唱える中、空襲はますます激化した。女性や子供まで駆(か)り立てて一億玉砕(ぎょくさい)が叫ばれた。7月、連合国は日本に無条件降伏を要求したが政府はそれを無視した。8月6日広島に、9日長崎に原子爆弾が投下され、数十万の人々が一瞬(いっしゅん)にして生命を亡くした。8日にはソ連が日本に宣戦(せんせん)した。8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏することを決定、翌日国民に知らせた。「戦争が終わった!」市民は呆然(ぼうぜん)とするのみであったが、案外冷静に受け止め、ホッとした一面もあった。
不安な点は「鬼畜米英(きちくべいえい)」と教え込まれていた連合国の占領であった。また、市内外の炭鉱、工場、鉄道建設で強制的に労働させられていた朝鮮半島出身者、中国人、捕虜(ほりょ)となった連合国軍の兵士たちの動きであった。敗戦と共に立場は逆転したのである。強制連行、強制労働、差別、虐待(ぎゃくたい)、それは受けた者にしか分らない心と体の深い傷となり、いつまでも残りつづけた。
さまざまな<噂(うわさ)やデマは人々を怯(おび)えさせ、市外へ逃げ出す婦女子等もいたが大きな混乱もなく平常に戻った。
強制的な徴用令(ちょうようれい)、動員令で、市内外の軍需工場や軍の施設に五万人ともいわれる人々、中学校や女学校の生徒が集められていた。海軍鎮守府の下には多数の兵士もいた。これらの人達に、敗戦は平和と自由をもたらした。徴用や動員は解除され、人々は先を争うようにして家族の待つ故郷の家へ、田畑へ、学校へと帰って行った。海軍は解体され、兵士は故郷へ帰り、軍の諸施設は極端に人員が減った。佐世保、相浦、針尾の海兵団や少年兵の訓練施設も人影がなくなってしまった。毎日のように市からの人口の流出はつづいた。食糧難や住宅難も大きな原因であった。空襲前までは30万人ともいわれた市の人口は、昭和20年末には14万人余と半分に減ってしまったのである。佐世保の産業、経済、生活を支えた「海軍」という大きな柱を失ったことにより、市民は一時的に心の中に大きな穴があいた状況になった。しかし一方では「これではいけない」と自覚し、復興に向けて歩み出そうとする力強い動きも出てきた。