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佐世保の歴史
新しい佐世保の建設−戦後
1 米軍進駐と終戦後の市民生活
昭和20年9月、アメリカ軍(米軍)は佐世保占領の前に沿岸や航路の機雷除去(掃海)を行った。掃海艇(そうかいてい)が佐世保港に姿を見せたのは9月13日朝であった。占領が迫ってきた。米軍占領に備えて市は鎮守府(ちんじゅふ)と協力して終戦連絡委員会を設置した。
22日朝7時、占領軍の上陸が始まった。市民は戸を閉め、人一人いない道路を軍用車が走り、兵士は整然と占領予定の海兵団の兵舎や工員宿舎へと向かった。占領は一段落し、占領軍はブルドーザー等の機械力を使って焼け跡の整理を行い、市民は今更ながら日米の国力、軍事力の差を見せつけられ、驚きあきれた。アメリカ兵は陽気で気さくだった。彼等の豊富なお菓子やタバコは市民にとって夢であった。まっ先に米兵になれた子供達は、すぐにチョコレート、キャラメル、ガム等をねだり彼等にまとわりついた。「ヘーイ、ハロー」から始まり「ギブミーチョコレート」「ギブミー・・・」と叫び、彼等の投げる「宝物」にわれ先に飛びつきそしてまた同じ言葉を叫んだ。占領軍は、栄、湊、松浦、浜田町一帯を鉄条網(てつじょうもう)で囲(かこ)み、ドラム缶や車両など軍需物資の置き場にした。佐世保に来ていた占領軍はアメリカ軍が大部分で、市民は占領軍と呼ばず「進駐軍(しんちゅうぐん)」と呼ぶ方が多かった。焼けた廃墟(はいきょ)の町に残った14万の市民達は、敗戦という事実の中で虚脱(きょだつ)状態に陥(おちい)っていた。それでも生きるため、家族を養うために必死で動き、働き始めた。衣も食も住も全て無い無いづくし、頼みの配給もわずかで遅れるのが当たり前であった。食糧難は特に都市において深刻であった。都市住民は空き地やグラウンド、公園にまで、いも、カボチャ、野菜を植え、衣服など金目(かねめ)の品を持って農村へ買い出しに行き、わずかの食糧を手に入れた。「たけのこ生活」という言葉が広まった。山菜、野草までも食べられ、燃料のために山の木々だけでなく街路樹まで切られた。着る物もふとんも無く、人々は冬を迎えてもただ寒さにふるえるだけであった。このままでは、1,000万人の餓死(がし)者が出るであろうと予想された。このような日本国民の窮状(きゅうじょう)に手を差し伸べたのは、アメリカや国連で、約435万トンという大量の食糧の輸入が認められた。これによって、日本国民は大量餓死(がし)という窮地(きゅうち)を脱することができた。
写真1 米兵にお菓子をねだる子供 |
写真3 焼跡に並べられた米軍車輌と物資 |