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佐世保の歴史

新しい佐世保の建設−戦後

2 引揚者の帰国

 「終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人(ほうじん) 310万人、あわせて660万人、その大半が昭和22年暮れまでに故国の土を踏んだ。日本歴史始まって以来の“民族の大移動”であった。九州では博多と佐世保が主力引揚港となり、さまざまな人間模様が港を中心に描き出された。」〈長崎県の戦後史『激動二十年』より〉日本から船を外地の主要港湾に派遣し、海外にいた一般邦人を、まとめて内地へ連れて帰るのを「引揚」とよび、軍人については「復員」とよんだ。以下、これをまとめて引揚者、引揚船と記す。
  『激動二十年』 引き揚げ悲歌  の見出し
○父母を求めて  ○引き揚げ孤児  ○満州引揚者
○シベリア引揚げ ○復員船     ○戦後の傷病兵
○警察官の記録  ○ビルマ捕虜記  ○コレラ船
○天然痘発生   ○比島戦没者の火葬○潜行三千里
○援護局裏面史  ○暁(あかつき)に祈る
 この見出しからも、引揚者が受けた筆舌(ひつぜつ)に尽し難い苦難の実情を伺い知ることができよう。
 厚生省佐世保引揚援護局(えんごきょく)は、浦頭(うらがしら)に上陸する引揚者に対し、1日5,000人余を賄(まかな)う宿舎をはじめ、食糧、衣料、医薬局を整備し、引揚者の世話にあたった。
 浦頭に入港した引揚者は、小船に乗りかえて桟橋に上陸し検疫(けんえき)を受けた。のみ、しらみ等の有害寄生虫(きせいちゅう)防除のため、DDTを身体中に吹きつけられた。15歳から55歳までの女性は、婦人相談所で健康の問診を受けなければ「引揚証明書」が交付されなかった。諸調査の後、引揚者は、元針尾海兵団内の援護局宿舎にたどり着き、疲れた身体を休めた。
 引揚げのピークの21年1月〜10月は毎月7万〜12万人が上陸、宿舎の収容人員も最高25,000人にのぼった。世話をする職員も1,000人を越えていた。
 引揚船内でコレラが流行し、佐世保港内に停船したまま何日も上陸できなかった人や、やっと内地にたどり着いても栄養失調や病気で死んだ人が4,000人もいた。その内半数は乳幼児だった。1ヶ月に600人の死者が出て、不眠不休で遺体の火葬を行ったこともあった。
 昭和24年1月9日、フィリピンから4,500余人の遺体と300余柱(はしら)の遺骨を乗せた引揚船ボゴタ丸が入港した。
 遺体は野天で火葬にされ、遺骨は遺族に渡されたが、身元不明の遺骨が300あった。同年供養塔(くようとう)が建てられ、この時の遺骨、援護局開局以来の火葬者の残骨、引取人不明者の遺骨を埋葬(まいそう)した。後ほど、近くに海光山本仏寺が建てられ、昭和61年には釜(かま)墓地記念館が完成した。
 疲れた身体を宿舎で休めた引揚者は、南風崎(はえのさき)駅から満員の引揚列車に乗り、故郷や親類縁者の家へと向かった。
 浦頭は、海外からの引揚者を迎え入れただけではなく、終戦後、母国に引揚げる朝鮮半島出身者、中国、台湾、沖縄、奄美大島へと帰る人を送り出す送還船(そうかんせん)の出発基地でもあった。日本に居る間に受けた数々の差別や虐待、強制労働に対して強い憤(いきどお)りを爆発させる人たちも居て、援護局の職員、警察官はその対応に心身をすり減らすことが多かった。
 平成10年2月23日から5日間「引揚港佐世保を偲(しの)ぶ全国の集い」が開かれ、全国から引揚者や家族が集まりかつての苦難を偲(しの)んだ。引揚船の歌「かえり船」を歌った田端義夫は、この歌の歌碑が建てられたのを機に浦頭での除幕式に出席し、心をこめて歌った。

写真5 引揚第一歩の地 浦頭
写真提供 芸文堂
「占領軍が写した終戦直後の佐世保

写真6 浦頭に着いた復員者 写真7 DDT消毒
写真提供 芸文堂
「占領軍が写した終戦直後の佐世保」

 
 

表1 佐世保(浦頭)港引揚関係年表

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