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佐世保の歴史
新しい佐世保の建設
−戦後
3 新しい教育制度−六・三・三制の実施
「オーイ、わーが(あんた)今からや」「うん2番方(ばんかた)じゃん」「おいは1番方やったもん」「よかなー」 これは、二部授業で朝登校の者と、昼から登校の者との会話である。1番方2番方というのは、炭鉱で朝坑内に入る者と昼すぎ入る者のことである。
戦争で校舎が焼けた市中心部、労働者が急増した産炭地、新制中学校の発足等で一時的に校舎が不足した市町村では二部授業を実施して急場をしのいだ。教室、教材、教具全てが足りない中での六・三制のスタートだった。
市では空襲で焼けた18の学校の児童、生徒を入れる教室の確保が第一であった。焼けなかった工員宿舎や国民学校、青年学校を何校かが共同で使ったり、1教室に50人以上詰め込んだりした。
空襲で校舎が全焼し、疎開(そかい)、食糧難で児童数も減り、数年間他小学校に移籍される等、苦難の道を歩いた光園、八幡両小学校の状況を見てみよう。(表2)もちろん焼けた他の小学校の道のりも同様に厳しいものであった。
六・三制の実施は日本教育史の中でも大事件である。佐世保市は昭和22年4月1日からの新制中学校の発足をどのように実施していったのであろうか。市には約10,000人の中学生該当者(がいとうしゃ)がいた。これらの中学生を受け入れるために、市は11の中学校の開校を計画した。そのためには、1学級50名(現在は最高40名)としても、最低120の教室が必要であった。各中学校はどのような形で開校したのだろうか。(表3)
市は本建築は後まわしにして、いち早く仮校舎の整備に着手した。机、椅子、黒板、窓ガラスを大急ぎで集め取付けた。教師、生徒共に劣悪な条件に耐え努力した。昭和23年4月、新制高等学校が全国で発足した。市は市内に15あった中等学校を新制高等学校に昇格させた。この高等学校の再編成が大きな問題となった。県内の高等学校を何校にするのかの決定権は、ニブロ米占領軍軍政部教育官にあった。彼は「ニブロ方式」と呼ばれるやり方で高等学校の統合を進めた。市では4校設置を求めたが、結果的には昭和24年、市内5公立普通高校を統合して、県立佐世保南、佐世保北高等学校とし、商業と工業を統合して県立佐世保商工業高等学校と3校が設置された。私立は問題なく高等学校となった。
昭和24年4月、長崎大学水産学部が、翌々年には県立商科短期大学が佐世保に設置された。