![]()
佐世保の歴史
新しい佐世保の建設
−戦後
4 軍転法と平和都市宣言
戦争に敗れ、最大のうしろ盾(だて)であった海軍を失った佐世保は、恵まれた港湾施設を活用して、軍港から商港をめざし再出発を始めた。
この市民の願いは、昭和23年以後佐世保港の貿易港指定、貯油港、食糧輸入港指定と実を結んでいった。しかし、水産基地の建設や旧海軍工廠、旧軍施設の平和利用はなかなか進まなかった。佐世保港の主要部は占領軍の管理下にあり、許可されなかったからである。
このような沈滞した市民の気持ちを明るくさせたのが、昭和24年5月の昭和天皇の行幸(ぎょうこう)であった。天皇は佐世保市民を励まし、勇気づけた。海軍が残した広大な土地、施設、建物を活用して、産業経済の振興を図ろうと考えた市は、これらを国から譲(ゆず)り受けるために「旧軍港市転換法」の制定をめざした。この法律の成否が市の将来を左右することから、旧軍港市の横須賀、呉、舞鶴にも呼びかけ、市と市民が一体となって運動がおし進められた。昭和25年1月、中田市長は市議会で「平和都市宣言」を行い、今後の佐世保は、平和産業都市、国際貿易港を目指すと宣言した。市長、市議会、市民の強い決意によって軍転法は国会で可決された。この法律は特別法だったので、市民が賛成するかどうか投票で決定する必要があった。市はこの法律が市の将来にぜひ必要であると市民に呼びかけた。住民投票では市民の90%が投票し、97%が賛成した。他の3市の投票とくらべても、佐世保が投票率、賛成率共に断然(だんぜん)1位で、市民の期待の大きさがうかがえた。同年8月、旧軍港市転換法は公布施行された。市も市民も「平和産業都市佐世保をつくる」と決意を固めた。この法律によって、市は膨大(ぼうだい)な旧海軍の遺産を譲(ゆず)り受けることになった。その内容も貯水池、水道、学校、公園、工場、港湾施設、住宅、道路、グラウンド、市の主要建造物の用地、民間会社に譲渡された建物など多方面にわたっている。海上、陸上自衛隊が使用している施設や広い土地も、軍転法によって返還されたものである。しかし何という歴史の皮肉であろうか、ようやく明かりが見えてきた「軍港から商港への転換」「平和産業都市の建設」という市の基本方針を、大きく変換せざるを得ない大事件がおこったのである。