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佐世保の歴史
新しい佐世保の建設
−戦後
5 戦後の復興と文化の再生
空襲により廃墟(はいきょ)と化した佐世保の中心街を見て、市民の中には再び佐世保の繁栄を取り戻そうとする人たちも出てきた。
心ある市民は、商工経済会佐世保支部(支部長・北村徳太郎・現在の商工会議所)を中心に、各界の代表30人を以て「佐世保復興委員会」をつくった。まず、物心両面での市の復興計画の立案がなされた。 やらなければならないことはいくらでもあった。しかし、資金、材料、労働力の不足は深刻であった。その上、中心部の焼け跡を占領軍が物資集積所や駐車場として接収(せっしゅう)していたので、復興計画は遅々として進まず、絵にかいた餅(もち)になるおそれがあった。焼け跡には、焼け残った木材やトタン等を使ってバラックが建ち始めたが、防空壕で暮らす家族もかなりいた。焼け残った家には、何世帯もの家族が同居し、空腹に耐えながら助け合って生活していた。復興は、教育や文化の面でも少しずつ進んで行った。9月からは各学校でも授業が始まったが、焼けた小学校、中等学校、女学校が10校を越えていて、児童、生徒を入れる教室がひどく不足していた。旧工員宿舎や他の学校、公会堂等を使っての分散授業、二部授業、青空教室は当たり前であった。それでも「勉強をしたい」という気持ちは強く、周辺部の中学生や女学生は、バスや汽車の運行が大変少ないにもかかわらず、何時間も歩いて通学した。「佐世保復興委員会」は、産業、経済、交通、通信、水道等の復興計画をたてるだけでなく、文化面での再生にも力を入れた。多くの著名人(ちょめいじん)が佐世保に招かれ、高い文化の香りを市民にもたらした。レオニード・クロイツァーのピアノ演奏会、前進座公演、現代国際美術展や著名な大学教授による文化講演会等は、荒廃した市民の心に慰(なぐさ)めと希望を与えた。スポーツの復興も早く、特に野球は大人だけでなく、小学生、中学生の間にまたたく間に広がり、不自由な用具と狭い空地で夢中になって試合を行う姿が見られ、「六・三制、野球ばかりが上手(うま)くなり」といわれた。戦時中の抑圧(よくあつ)された状況下での官製文化活動や団体は影をひそめ、市民たち手づくりの文化活動が勢い良く芽生(めば)えて来た。文芸、音楽、美術、映画、スポーツが多くの市民の心をとらえたのである。