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佐世保の歴史

新しい佐世保の建設
−戦後

7  朝鮮戦争と佐世保

 昭和25年(1950)6月25日、朝鮮戦争が突如始まった。不意をつかれた韓国軍は圧倒的な北朝鮮軍の攻撃に南へ南へと追い詰められていった。
 トルーマンアメリカ大統領は、韓国支援のためアメリカ陸海空軍に出動を命じた。福岡、小倉、熊本、佐世保に駐留していた米軍は即刻行動を起こした。日本は連合国の占領下にあり、アメリカが戦争に参入したことで、後方支援基地の役割を担った。朝鮮戦争は佐世保の運命を一転させた。戦場に近い佐世保は、60年かけて築き上げてきた軍港の設備を生かし、前進基地としての役割を立派に果たしていった。アメリカとその友好国は国連軍となり、港の一角に国連軍佐世保司令部が設置され、青い国連旗が掲げられた。国連軍の前進基地となった佐世保には、毎日何本もの軍用列車、貨物列車が続々と到着し、普通列車のダイヤは狂いっ放しだった。列車は引き込み線を通って岸壁まで直通し、兵士と軍需物資を下ろした。運送、荷造り、積み込みの作業は24時間体制で行われた。労働者も船も車も総動員されたが国連軍の要求をさばくことはできなかった。不況に沈んでいた日本の企業に、国連軍からの軍需物資の注文が相次ぎ、日本経済が一挙に活性化し復興にはずみがついたのは、この戦争のお陰である。これを「特需(とくじゅ)」と呼んだ。日本の主だった船は軍需物資と兵員の輸送に動員された。こうした船を含めて佐世保港には、毎日100隻を越す艦船が出入りし、商船や漁船の航行が制限された。港口には防潜網(ぼうせんもう)が張られ、夜間の出入港は禁止された。6月29日には、人々が久しく忘れていた空襲警報が発令され、市民を驚かせた。各国の兵士が中心街にくり出し「国際都市サセボ」が出現した。旧鎮守府〜佐世保橋間の通りが「国際通り」と呼ばれるようになったのはこの頃からである。
 当時1ドルは360円であった(当時米10kg450円前後)。戦場に向う兵士、戦場帰りの兵士共に戦時手当の支給もあって懐(ふところ)は豊かであった。銀行で両替した100円札の束をポケットに入れ、三ヶ町の「すずらん通り」で土産品を買い、夜になると一夜の享楽を求めて外人バーやキャバレーに殺到した。
 松浦町、常盤町(ときわちょう)には外人バーが続々と建ち、キャバ レー、ダンスホールも負けじと続いた。原色のネオンが夜の街を彩り、一大歓楽街(かんらくがい)が出現し喧噪(けんそう)を競った。
 37円のビールにポテトフライをつけた150円のセットが飛ぶように売れ、リンゴ箱に100円札を足でふんづけて稼(かせ)いだという。全国から一稼ぎを目あてに人が集ってきた。米兵相手の女性をパンパンと呼んだ。輪(りん)タク、ハウス、キープ、オンリー、バタフライと今では訳の分からない言葉が使われ、「ヘーイユー、ハバハバ」といったとんでもない英語が飛び交った。「ビールの消費量九州一、輪(りん)タク一140台、進駐軍労務者の総賃金年間1億円、九州の特需130億円のうち約半分が佐世保に落ちた」と『年表・佐世保』志岐叡彦著には記されているが実態はこれを上回っていた。
 倒産寸前のSSKは、昭和25年の売上げが156万円だったが、翌年は14億2千万円に達し、完全に立ち直った。デパートの売上金も3億円から6億円に倍増し、多くの企業が借金を返した上に預金をふやした。
 「金ヘン景気」といわれるほど、銅、鉛(なまり)、真鍮(しんちゅう)、鉄類が高く売買され、電線、水道管の泥棒が横行した。
 朝鮮戦争は佐世保にプラス面だけをもたらしたのではなかった。特に性風俗の乱れは眼に余るものがあった。性病にかかる兵士がふえ、佐世保市は「風紀取締条例」を施行し、市議会では、関係業者の取締強化や市内の「殺人的騒音」防止対策、教育環境問題について協議を重ねた。特に教育関係者は児童生徒をどう健全に導くかに頭を痛めた。戦場に赴(おもむ)く兵士、帰還兵士、その気持ちは荒(すさ)みがちで、米兵による犯罪が多発したが、新聞等での発表は少なかった。講和条約締結後、犯罪被害者からの賠償(ばいしょう)申し出でかなり明らかになった。
 中田市長が佐世保の再建策として、苦労を重ねて実現しようとした、平和宣言の高らかな理念は無視され、平和産業都市建設も遠のいてしまった。佐世保発展の切り札(ふだ)とも期待された軍転法は、佐世保港の大部分が米軍に接収(せっしゅう)されたことにより、棚上(たなあ)げ状態となった。昭和25年6月から2年余りの特需景気は、一気に後退し、朝鮮戦争の終結によって又もや戦後不況が市民の上にのしかかってきた。

写真17 朝鮮へ輸送のため貨車より降ろされる105ミリ砲

写真19 佐世保港口に張られた防潜網

写真21 外人バー街

写真23 外人バー 昭和25年ごろ

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