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佐世保の歴史

新しい佐世保の建設
−戦後

10 西海国立公園の誕生

 西海国立公園の区域は終戦までは佐世保軍港を取り巻く要塞(ようさい)地帯で、人の出入り、写真撮影(さつえい)やスケッチが禁止されていた。眺めの良い山々も立入禁止であった。
 九十九島等のすばらしい景観を人々がゆっくり眺めることが出来るようになったのは戦後になってからである。
 戦前からこの地域の山、海、島のすばらしさを知って欲しいと願っていたのが、戦後すぐの市長になった中田正輔(まさすけ)である。五島や北松にも同じ考えの人がおり、これらの人達が中心となって、他の地域や県にも呼びかけ、昭和25年「西海国立公園指定促進期成会」を作った。
 期成会の会長に就任した中田市長は、国立公園指定の権限をもつ厚生省に、九十九島、五島、平戸のすばらしさを説き猛烈な陳情(ちんじょう)をくり返した。一方ではマスコミ等を使っての宣伝を行い、この地域の美しさもしだいに知られるようになってきた。
 昭和26年には西海国立公園の実現を公約にした西岡知事が誕生し、運動も大きく盛り上がった。西海国立公園指定の運動は長崎県民挙げての運動となったが、当時国立公園に名乗りをあげていた地域は50以上もあり、競争は大変厳しく実現も困難視された。
 中田市長は常に運動の先頭に立ち、国立公園審議委員や厚生省の役人を何度も招いた。また、東大、京大、長崎大に学術調査を依頼した。特に京大による平戸の調査、東大による五島の調査は、考古、民俗、言語、地理、動植物、地質、日本史、古文書(こもんじょ)とあらゆる分野にわたって行われ、多大の成果を収め、国立公園指定の大きなポイントになった。
 県、市、関係団体、国立公園期成会を挙げての熱意はしだいに成果を生み始めた。昭和27年には、50あまりの候補地の中から選ばれた19の自然公園候補地になった。さらに運動は盛り上がり、昭和30年3月16日、ついに待ち望んだ国立公園の指定を受けた。
 この後、佐世保は西海国立公園の玄関として、観光に大きな重点を置いてきた。同じ30年10月には西海橋架橋(かきょう)が実現し、道路、観光施設の整備、五島、平戸、その他の離島航路のフェリー化、高速化が進められて来た。
 五島学術調査の折、地形学の最高権威(けんい)である東大の辻村国立公園審議委員が変化に富んだ五島列島や小値賀(おぢか)の火山群を見て「東洋のガラパゴスだ、生きていてよかった」と涙されたという。西海国立公園誕生の秘話である。

写真28 若松瀬戸調査中の下村審議会長

写真31 西海国立公園指定祝賀会

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