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佐世保の歴史

新しい佐世保の建設
−戦後

11 エネルギー革命と石炭産業の衰退

 昭和35年(1960)当時、市民に「佐世保の基幹産業は何ですか」と聞くと、多くは「石炭と造船」と答えたであろう。それ程、佐世保及び北松の町村では石炭産業が盛んで、地域の経済を支えていた。市内だけで30余りの炭鉱があり、労働者も4,000名近かった。それが13年後には炭鉱も労働者もゼロになってしまった。 この短い期間に一体何が起こったのか。
 その原因は石炭から石油への世界的なエネルギー革命と海外からの安い石炭の輸入増にある。水力、石炭、石油を三大エネルギーという。戦前の消費割合は、石炭62%、水力18%、石油10%である。昭和45年には、石炭21%、水力6%、石油71%となった。その後も石炭の地位は低下し続けた。石炭にくらべて安くて使い易く、供給も安定している石油が全てのエネルギー分野において取って変わったのである。
 市内の炭鉱も昭和40年には6鉱になり、47年3月全て無くなってしまった。余りにも急激な炭鉱の閉山は、県北一帯に深刻な社会 問題を発生させた。戦前、佐世保の大部分は要塞地帯となり、石炭があることが分かっていても、採掘(さいくつ)は認められなかった。むしろ後に市域に編入される柚木、大野、中里、皆瀬等の町村に炭鉱が開坑し、相当量の出炭がなされていた。
 戦後、深刻な石炭不足となり、国は積極的な増産政策(傾斜(けいしゃ)生産)を推進し、炭鉱数が増えていった。朝鮮戦争による好景気が石炭価格を押し上げ、空前の炭鉱景気をもたらした。市内の炭鉱数も、昭和27年には34鉱に達した。朝鮮戦争後の不況で停滞したが、昭和32年頃の神武景気で、38鉱に増えた。相浦港には石炭積出の施設が整備され、毎日何十両もの貨車が石炭を満載(まんさい)して入り、最盛期の昭和35年には1年間で、130万トンの石炭が日本各地へ積み出された。
 一方、この頃から始まった炭鉱の閉山は急激に進み、多くの失業者を生み出した。失業者とその家族、子供達を援助するために「黒い羽根」募金運動も行われた。閉山後30年以上たった今日でも、じん肺患者の裁判、鉱害問題等深刻な社会問題が残され、解決の努力が続けられている。

写真34 炭鉱の象徴 ボタ山

図2 佐世保市内の炭鉱の分布

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