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佐世保の歴史

新しい佐世保の建設
−戦後

コラム
子どもの遊び

戦後の復興は、廃墟の中から当時の人たちが、一生懸命働く中で成し遂げられたといってよい。どの家も貧しく、両親は共働き、家に帰っても何もなかった。一家の団らんを味わうことも犠牲にして、多くの子どもを抱え働くことに精一杯の状態であった。 ほとんどの子どもたちは、友との遊びに明けくれた。川はその中で最大の遊び場であった。ウナギやフナ捕り、近所の子どもは群がって川で泳ぎも覚えた。大自然が子どもたちの遊び場であった。山では陣小屋作り、そこでターザンごっこをしたり、柿やビワを取ってきてむさぼり食った。畑に植えてある芋(いも)も子どもの空腹感を満たすのに都合がよかった。したがって空腹を補うだけで、罪悪感などあろうはずがなかった。遊びは、男の子はペチャ、輪回し、けり馬、チャンバラ、ビー玉、コマが主で、近くの鍛冶屋(かじや)さんに特注のコマの剣を作ってもらい、それで相手のコマに傷を付けたり、割ったりするのである。近所のくず鉄や赤がね、水道の鉛管を、金属回収業の人に売ってお金を得ていた。女の子は、人形遊びや毬(まり)突き、オハジキ、オシト(お手玉)、縄跳び、ゴム跳び、ハナイチモンメ、アヤトリ上品なところではかるたや双六、買い物遊び、トランプなどで楽しく遊ぶのである。学校ではデコ開戦、ハチ開戦、三角ベースボールも流行(はや)った。男の子も女の子も共通の遊びはドッジボールやなが馬、缶蹴(かんけ)り、つかみ鬼、助け鬼だった。近所の上級生の権力は絶大で、タテのルールを学ばないと仲間に入れてもらえなかった。メソメソする子は、仲間はずれをされることもあったが、誰にもいえず我慢するしかなかった。そんな遊びで子どもの連帯感やふれあい、コミュニケーションもはかられたと思われる。子守やお手伝いが女の子にはあり、子守歌をよく歌っていたのを覚えている。その中から自然と『生きる力』を身につけたように感じている。

 

(長崎県小学校教育研究会体育研究部提供)