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佐世保の歴史
佐世保の成長と市民生活の向上
1 SSKの歩み
昭和20年11月、佐世保海軍工廠(こうしょう)は56年間の幕を閉じた。戦前には46,000人いた人員も8,000人となり、さらに減り続けていた。従業員の願いは、旧工廠の施設を使って造船会社として再出発することであった。当時工廠は連合国軍に接収(せっしゅう)され、復員局が管理していた。関係者や元従業員の運動により、昭和20年2月工廠施設の3分の2の使用が認められた。同年10月資本金600万円で佐世保船舶工業株式会社が設立された。会社発足と同時に旧工廠従業員より1,834名を採用した。当初は旧工廠時代の技術を生かし、旧海軍艦船や一般船、引揚船の修理解体を行い、昭和24年までは利益も上がっていた。しかし、それ以後は日本全国が不況になるとともに、会社の存続(そんぞく)さえ危うくなり、昭和25年2月、ついに669名の人員整理が行われた。
市の基幹産業の存続を願って、中田市長が会社市営案を出さざるを得ない程SSKは苦境におちいっていた。その苦境を救ったのが朝鮮戦争であった。日本のめぼしい船は米軍に徴用(ちょうよう)され、韓国に向けて軍需(ぐんじゅ)物資を輸送した。連合国の艦船も韓国と佐世保との間を往復した。SSKには船舶の修理が押し寄せ工場は活気を呈した。好況の波に乗ったSSKは、船舶、桟橋等の海上部門だけでなく陸上関係の工事にも進出していった。SSK待望の新造船建造が認められたのは昭和27年4月の平和条約発効によってであった。当時すでに朝鮮戦争はヤマを越え特需も減る傾向にあり、海運、造船界も情勢が悪化し始めていた。そういう状況の中で、昭和28年8月、邦洋水産の永邦丸(1,013トン)が着工され、人々に希望を与えた(12月進水)。
しかし、それ以後の造船界は不況に突入した。大きな借金を抱(かか)え、国の計画造船の受注も外れたSSKは、会社再建整理法の適用を受ける最悪の状態に陥った。
SSK再建を目指して懸命の努力が続けられた。市も2,000万円の損失保証を行って援助した。市議会、市民ともども温かい眼でSSKの再建を励まし続けた。昭和30年(1955)東京本社人員整理62名、造船所人員整理933名が断行され、残る従業員は1,886名となった。臨時工288名も同時に整理された。暗い空気に包まれていた海運、造船界が好況に転じた
のは、昭和30年も後半に入ってからである。
SSKの経営も順調に回復し、大洋漁業との提携(ていけい)も あって再生を果した。7億円余りもあった負債(ふさい)も返済し、整理会社から解除されたのは昭和32年であった。その後のSSKの歩みは、多少の浮沈(ふちん)はあったものの順調であった。資本金も数度に亘(わた)って増額され、昭和46年には30億円になっていた。
昭和47年3月現在の状況
○資本金 30億円
○売上高 484億円(1年間)
○従業員 6,327人
○社外工 2,934人 計9,261人
○受注残 新造船13隻と機械鉄構を含めて1,045億円(これのみ昭和47年6月末)
「嫁にやるならSSK」ともいわれ、わが世の春を謳歌(おうか)したのがこの時期である。昭和36年(1961)、社名を「佐世保重工業株式会社」(通称SSKはそのまま)に改称した。昭和36、37年と旧海軍工廠の敷地と施設(しせつ)の払い下げを受けた。これによって国より借用中の施設は全て社有財産となった。37年には、当時世界一といわれた13万トンのタンカー「日章丸」が竣工し、市民は誇りを持って自慢話に花を咲かせた。
昭和43年(1968)には第三ドックの払い下げを受けた。その後、大型タンカーの建造に備えて第三、第四ドックを、40万トン、38万トンに拡張した。
このように発展、拡張路線を走って来たSSKに大きな問題が発生した。ニクソンショックとよばれた通貨調整問題である。昭和46年、1ドル360円だった為替(かわせ)レートが、308円となり、輸出契約をドルの分割払いで行っていた輸出産業は巨額の為替差損(かわせさそん)をこうむった。
SSKの損失は143億円に達した。この後も為替レートは円高が続き、造船業の競争力は低下した。造船王国日本の地位も韓国、台湾との競争で危くなってきた。造船業は浮き沈みの波が極めて大きい産業である。外国や国内企業との競争に勝ち抜くために、厳しい合理化、人員整理が続いた。その象徴(しょうちょう)的な事件が、原子力船「むつ」の改修受入れであり、坪内社長による経営立て直し策と労働者との対立であった。