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佐世保の歴史

佐世保の成長と市民生活の向上

2 原子力艦艇の入港

 「人に例えれば佐世保は足の裏である」といわれた。米原潜の初寄港が佐世保に決定した際「なぜ佐世保が最初なのか」という質問に対しての政治家の答である。
 横須賀は東京に近く呉は内海で人口も多い。佐世保なら少し騒(さわ)いでも大したことはないという考えである。  昭和38年3月、佐世保への原潜寄港が発表された。市議会は「安全性が確認されるまで慎重に」と要望書を提出した。市議会、市民それぞれが「何で佐世保に」と 複雑な心情を胸に抱き、賛否(さんぴ)を決しかねていた。昭和39年11月12日朝、原子力潜水艦シードラゴンが初入港した。被爆国日本という国民の心情と賛否の論議が入り混じる中での入港であった。市は「原潜入港対策本部」を設置し、反対派は現地闘争本部を設けた。市内の革新政党、文化人、学者の多くが反対を表明し「入港反対市民集会」が結成された。
 数万人規模の反対大集会とデモ、地元反対派による集会、デモが相次いだ。原潜見張り所も設けられた。入港当日は反対派と警官隊がもみ合いになり逮捕者も出た。そのような動きの中で原潜は14日出港した。この時から昭和42年までの4年間の原潜の入港は12回で、市民は次第に原潜なれしていった。アメリカは昭和42年9月、原子力空母エンタープライズの入港を申し入れてきた。最初の寄港地はまたもや佐世保になった(表3)。
 エンプラ入港をめぐっての一連の混乱、騒動は「エンプラ事件」として、全国の注目を浴びた。直接の舞台となった佐世保では、あまりの混乱に商店街はシャッターを閉め、学校は休校になった。反対集会参加の労働者と学生、機動隊だけで数万人、ヤジ馬その他を合わせると10万人以上が中心部でひしめいた。
 激しかった反対闘争は嵐のように過ぎ去ったが、足が地に着いた平和運動を粘り強く進めようとする市民達は、「19日市民の会」を結成し、毎月19日静かにデモを実施し、その回数もすでに400回を越えている。同じ43年5月、入港したソードフィッシュからの異常放射能漏(も)れという事件が発生し、市民を不安におとし入れた。漁民は魚が売れず大迷惑であった。その後も原子力艦艇の入港は続いており、原潜だけで157回(平成11年末)に達している。

写真4 エンプラ入港反対衝突 (佐世保事件)

表3 原子力艦艇入港関係年表

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