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佐世保の歴史

佐世保の成長と市民生活の向上

4 石油危機と市民生活

 エネルギー革命による世界的な石油需要(じゅよう)の増大は、タンカーの大型化をもたらした。また、韓国、台湾、欧州の造船所が大型化と近代化を進め、SSKも大型ドック建設の必要性に迫られていた。昭和48年5月、SSKは100万トンドック建設計画をうち上げ、候補地として米軍と海上自衛隊が使用中の崎辺(さきべ)地区があげられた。それを支援して、辻市長を先頭とした崎辺地区返還(へんかん)運動が盛り上がり、翌年2月返還が決定した。昭和48年10月、イスラエルと中東のアラブ諸国の間で第四次中東戦争が始った。世界の石油輸出の大部分を占めるアラブ諸国は、原油価格の大幅値上げ(3ヶ月で約4倍)と輸出量の大幅削減(さくげん)を宣言した。さらに石油生産量の二五%減と毎月五%ずつの削減を決定した。
 中東産の安い原油の大量輸入によって高度成長を続けていた日本の産業経済は、極めて大きな打撃を受けた。
 石油不足をこの上ない金儲(もう)けのチャンスと見た業者達は、ガソリン、灯油、生活必需(ひつじゅ)品の買い占め、売り惜(お)しみに走った。それにデマが加わり急激な物価の上昇をもたらした。昭和49年2月の卸売物価指数は、1年前の36%高となり「狂乱(きょうらん)物価」と呼ばれた。
 石油価格の急上昇は佐世保にも大きな影響を与えた。特に、基幹産業であるSSKは大きな打撃を受けた。  「さあ、100万トンドックの建設が始まるぞ」と市民の期待が高まったその時に、情勢は大きく変化した。石油危機が石油の消費量を減らし輸送量も減った。タンカーが余り始めた。狂乱物価はドック建設費を倍近くに押し上げた。SSKは100万トンドックの建設を断念し、崎辺地区東半分は再び米海軍に提供された。
 〈石油危機を伝える新聞記事 昭和48・11〜49・1〉
○11・22 トイレットペーパーパニックで先買行列、佐世保玉屋正面で限定販売
○12・11 灯油380円(通産省の凍結価格)の店は3割
○12・11 市営バス燃料難 1月以後運行削減のおそれお先真っ暗
○12・20 消費者側は価格の乱れを追求、業者側は「節約して」の一点ばり
○1・20 ネオン消え客足減る、造船所は残業カット
  石油危機と市民生活の関りについては(表6)に示す 。

資料1 1973年の日本のオイルショック

表6 石油危機と市民生活

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