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佐世保の歴史
佐世保の成長と市民生活の向上
6 教育の発展と課題
高度経済成長政策は、国民の生活水準を大きく引き上げ、冷蔵庫や洗濯機などの電化製品、車、メディア、さらにマイホームと国民の夢は大量生産された製品の山で築き上げられた。
それを支えたのは、農村部の余剰人口であった。中学卒業生は『金の卵』ともてはやされ、都市部へ集団就職していく若い労働力であった。 佐世保市内でも同じように、次々に阪神地方や中京地区、東京方面に若い労働力は流れていった。それは高校への進学率の上昇や大学への進学という高学歴社会を生むことにもなった。勤勉な若い力を得て、日本の社会はますます発展し、やがて、国民総生産(GNP)第2位と、アメリカに次ぐ経済大国ともてはやされることになった。しかし、同時に深刻な受験競争が起こり『補習授業』が中学校、高等学校で公然と実施され、有名校への進学熱が保護者の間に急速に広まっていった。しかも、生徒の学力差で人間まで差別する風潮が全国的に広まり、受験競争と学校の荒廃(こうはい)が並行した形で起き始めていた。文部省は教育課程審議会の答申によって、10年毎に学習指導要領(しどうようりょう)の改訂(かいてい)を進めたが、受験競争は激しさを増した。
そのような中で、管理体制も強化され、組合運動が先鋭(せんえい)化した。管理職対組合という対立の構図ができ上がり、ストライキと処分、学力テスト反対、宿日直反対運動、超勤拒否などの闘争がおきた。さらに、日曜運動会反対などと次第にエスカレートし、子ども・保護者不在の対立がかなりの間続いた。不毛の対立はやがて保護者に学校不信を持たせることになっていった。また、子どもの非行、荒れの兆候(ちょうこう)があちこちで見られるようになった。
人事の停滞に危機感を持った県は、昭和52年から全県広域人事を実行に移した。教職員を離島地区・郡部・市部に分け、全県を隈(くま)無く異動することを義務づけたのである。ある意味では離島や市・郡部との交流は功を奏したかのようでもあったが、多少問題があったことも否めず、10年毎に見直しをしながら現在まできている。
佐世保市の教育の発展に寄与したという面では、中学校連盟の働きも特筆される。多くの都市が中体連という組織で、体育面を充実させることに主眼をおいていた。佐世保市の中連は、体育面ばかりでなく、文化部・学芸部・生活指導部などがあり、文化面でも子どもたちを育てる仕組になっていた。しかし、昭和50年から7年間、中連体育部の活動が行われず、結果的に子どもたちの体育面の欲求をそぐことになった。そのため、いずれの学校も社会体育に依存し、保護者との溝を埋めるにはかなりの時間を要した。復活した57年(1982)以後は、各中学校でそれなりの成果をあげている。
また教育面での貢献に欠かせないのは、佐世保市PTA連合会や各小中学校PTAの活動である。体育・文化・生活指導・保健・母親の各部に分かれ、学校との連携を図りながら、活発な活動を続けている。会員の悩みはつきないが、その支援は大きな力となっている。
経済的には豊かになった反面、核家族の進行と団地、宅地の造成は幼い子ども達の遊び場を奪い、自然に親しんだり、体験的な冒険心を培(つちか)う場をもなくしてしまった。「非行・荒れ」が増加することになり、さらに、偏差値での輪切りなど、深刻な社会問題に発展した。
文部省も昭和57年(1982)の学習指導要領の改訂で、学校裁量(さいりょう)の時間(ゆとりの時間)を大幅に増やし、学校の再生に力を注いだが、思ったようには成果があがらなかった。平成14年(2002)実施の教育課程では、週学校5日制の実施にともなって、小中学校のゆとりの時間をなくし、総合的な学習を大幅に取り入れ、教科の枠(わく)に拘(こだわ)らずに子ども達の「生きる力」や「思考力」を培(つちか)う教育を実施するようになっている。しかし、現在大きな問題になっているのは、学校での「いじめ・不登校・暴力」を克服できない教育力の弱さや地域の教育力、家庭の教育力の低下であろう。佐世保市でも「佐世保市の教育を考える市民会議」を結成し、今後の教育の在り方、21世紀を担う児童・生徒をどう育成するかの検討に入っている。子育ての悩みや幼児の虐待(ぎゃくたい)、社会性のない大人社会、問題行動の続出、教師間や地域との連携(れんけい)不足、さらに通塾生の増加、基礎学力の低下、高校では就職難の状況など、戦後教育のひずみとなって表れてきた。
次代を担う子ども達をめぐる環境は大変厳しいものがあるが、一人一人の大人が英知を出し合い、行動しなければならないと思われる。