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佐世保の歴史

佐世保の成長と市民生活の向上

7  市街地の変化とドーナツ化現象

 昭和30年以後の市の人口は大体25万台で推移しているが、居住町別に見ると大きな変動がある。例えば、上京町の人口は、昭和35年1,037人、平成11年72人と45年間で15分の1に減っている。高度成長も後半になると、人々はやっと快適な住宅を求め始めた。それを受けて昭和46年に花高団地(2,450戸)、新田団地(736戸)の開発が始まった。
 その後の住宅開発は順調に進んだ。市民が入手しやすい価格にするため、地価の安い郊外が選ばれた。昭和40年代までは、中心街の商店であっても働く場(商品の販売)と生活の場(家族生活)は同じであった。商店街の近代化、大型化が進むにつれ、職住一体の状況は次第に少なくなり、自宅を別に造って住む職住分離型が多くなってきた。中心街の昼間の人口と夜間人口の差は、住民流出により更に大きくなり、中心街の空洞化が進んだ。以上のような状況を「ドーナツ化」現象と呼んでいる。
 ドーナツ化現象は道路をはじめ水道、電気、電話、ガス等の都市生活基盤整備のための技術が進歩したことによって、可能になった。特に道路の整備はめざましい。戦後すぐに着工された中心部の国道35号を36m幅に拡げる工事、引き続いての早岐〜日宇〜佐世保、相浦〜佐世保、大野〜佐世保の改修工事は、来るべき自動車時代に備えてのものであったといえる。
 「モータリゼーションの波」が全国に広まり、佐世保にも及んで来たのは、昭和四十年代後半であった。高度経済成長による所得増は、「高嶺(たかね)の花」と思われていた乗用車を人々の手の届く所に近付けた。手頃な月賦販売の普及が人々の購買意欲を高めた。
 昭和50年代以後は、激増する自動車と道路建設、改修との追いかけっこであった。道路に続いて、電気、電話、ガス、水道等のインフラ整備とともに、幼稚園、保育園、小中高の学校、各種金融機関、郵便局、行政機関、公園、体育施設等の建設、整備も進んだ。
 衣食住という基本的な生活条件が一応整い、市民がどうにか自分の生活を楽しもう、子供を大学までやれそうという精神的、経済的余裕が出てきたのは、戦後も30有余年たってからであった。
 昭和30〜40年代というのは、近代都市佐世保の基盤整備、そして次のステップ、つまり県北中核都市へ変容する土台作りの時期であった。
 一方、交通量の激増は、次の様な状況となって、佐世保の景観を変容させていった。
(1)バイパス、トンネル、橋の建設 日宇、早岐、山手、SSK、中里、相浦等のバイパス、鹿子前、国見等のトンネル、西海橋、針尾橋、早岐瀬戸大橋、新佐世保橋等、更に西九州自動車道のトンネルや橋と列挙すれば実に多くにのぼる
(2)交通信号機、交通標識(ひょうしき)の増加 佐世保駅前〜城山町の信号機は、昭和43年には7ヶ所であった。今は倍増している。交通標識の種類と数の多さは案内等も含めると驚く程である。昭和46年押ボタン式信号機が大塔駅前に登場した。
(3)地下道、横断(おうだん)歩道橋の建設 市の歩道橋第1号は戸尾で昭和41年である。 42年には島瀬、潮見と続いた。地下道第1号 は駅前で約93m、昭和33年完成、昭和46年には大野、京町の地下道が完成した。
(4)市街地の美化、高層化 昭和44年1年間で佐世保に3階建以上の建物が40棟建てられ、その後も続々と建てられた。 特に国道沿いは建物の高層化が進み、近代都市としての形が整ってきた。
 道路の建設は市街地の拡大、延長をもたらし、今まで何も無かった所に新しい企業を立地させた。佐世保と日宇の間は国道沿いに企業、店舗が連なり、大型スーパーの進出が著しい大塔を経て早岐まで連なる勢いである。
 スーパーマーケットが新興住宅地等に増えてきたのは昭和40年代になってからである。
 スーパー同士の生存競争が激しくなる中で、自動車の普及に対応して広い駐車場を持たないスーパーは姿を消していった。また、大手資本系列のスーパーが佐世保にも進出し、デパートに対抗して実績を挙げている。昭和43年マルエー、49年のジャスコの開店がその例である。

写真15 住宅開発 十郎原団地

表9 小型乗用車数の推移

写真16 バイパスの開通

写真17 昭和中期の中心街

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