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佐世保の歴史
佐世保の成長と市民生活の向上
8 市民意識の変化とバブル崩壊
昭和40年代の「いざなぎ景気」以後、日本人の意識、思考は大きく変わってきた。「より良い生活をしたい」という欲求が、日常生活の様式を変え、電気製品や自動車の普及がそれを可能にした。変化は都市に始まり、テレビを通じて農村に及んだ。高度成長は、ドーナツ化現象を生み、農村の伝統的な共同体社会を崩壊(ほうかい)させた。地域の安全の危機を招き、行事、慣習を消滅(しょうめつ)させ、祖先が年月をかけて守ってきた伝統的な文化が、今や風前の灯になってきた。テレビは、大都市の生活様式、文化、言葉を日本の隅々にまで広めた。また、スーパーマーケットの全国への広まりと電気、電話、冷蔵庫、炊飯器(すいはんき)、ガス等の普及によって、人々の生活に余裕と余暇(よか)をもたらした。ダイニングキッチンの普及も含めて「台所革命」といえる。
佐世保の周辺部に拡大していった住宅団地は、自家用車の普及と共に周辺の北松や東彼の町にも広がり、これらの地域は佐世保のベッドタウンとなった。経済的な余裕は、生活様式の変化だけでなく、高校、大学への進学要求となって表れた。折からベビーブームの波が高校に及び、高校新設運動に拍車をかけた。教育の質の向上に対する要求は、全日制高校への進学希望の高まりとなって表れ、定時制高校への進学者は激減した。
県立佐世保東商業高校(昭37)、市立佐世保西高校(昭39)、私立佐世保実業高校(昭41)が相ついで創立された。他の公私立高校も学級増・定員増を行なった。大学への進学者数も年々増えていった。
市民の自由時間の増加と経済的余裕は、レジャーブームとなって人々を外へ向かわせた。この動きは、都市部でも農村部でも同じであった。かつての「勤倹貯蓄(きんけんちょちく)」を美徳とする意識は薄れ、消費、使い捨てを当然とする風潮を生み出していった。
店には、人々の消費意欲をくすぐる商品が美しく並べられている。食料品、自動車、衣類、家具、書籍、飲料等の店が客を待ち、外食産業が胃袋を満たしてくれる。 このような生活を営んでいくためには、それに見合った収入が必要になってくる。かつては必要な食糧の大部分を自給していた農家でも、現金収入を得るために、青壮(せいそう)年層が外に働きに行くことが当たり前になり、三チャン農業とか一チャン農業といわれるようになってきた。
このように、人々の眼が外へ向かうようになれば、女性もまた経済生活の重要な担(にな)い手となってきた。共働き家庭が普通となってきたのである。外に出て働く女性の増加、つまり女性の社会進出は女性の社会的地位の向上となってあらわれてきた。かつての女性の意識は大きく様変わりし、それにつれて、男性側の意識も大きくかわらざるを得なくなってきている。1990年、それまで上がり続けていた株価が暴落を始めた。翌年にはこれも異常な上昇がつづいた地価が下落に転じた。いわゆる「バブルの崩壊(ほうかい)」である。これを機に日本の景気は後退を続け不況は年々深刻さを加えていった。バブル最盛期佐世保においては、四ヶ町、三ヶ町のアーケードが改築されたし、西九州自動車道が大塔まで延長された。国際通り線の改良工事も行われた。市民にとって大きな朗報となったのがハウステンボスの進出であった。平成元年から2千数百億円を投資して大工事が始まり、平成4年3月オープンした。毎年400万人近い観光客を集める巨大観光地が出現したことによりその波及効果は1千億円を越えた。
ハウステンボスに集まる多くの観光客をいかにして佐世保の市街地へ誘い込むかが、佐世保の観光の大きな課題となった。
そのために西海パールシーの施設の整備と内容の充実が図られた。観光遊覧船の人気は高まる一方で、各種の大会が開催されて、入場者もふえてきている。
市内や見晴らしの良い高台や海岸にホテルが相次いで進出し、既存のホテル、旅館の増改築も相次いだ。
貸切バスを連ねての団体客は減少し、小グループや自家用車を使っての個人客がふえる傾向にある。西九州自動車道が干尽(ひづくし)(佐世保みなとIC)まで開通したことにより、九州各地との時間距離は短くなった。それに伴って、市内の道路の整備、駐車場の増設も進められたが、まだ十分とはいえない面もある。年間120万人の観光客を集める県北のもう一つの観光拠点平戸市と結ぶ西九州自動車道の建設が待たれる。
元気で魅力のある佐世保市の名を広める各種の取り組みが、市制百周年を契機に進められており、市民の積極的な参加とPRが期待されている。